現役パティシエと学ぶ、お菓子の歴史

ヨーロッパを中心にお菓子の誕生から現在まで、その背景も一緒に学んでいきましょう。

「クッサンドリヨン」 ①

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 Bonjour à tous !!

ご無沙汰でございます!

 

 

 

実は4日ほど前よりフランスはリヨンの街に越してきました。

何とも急ですが、この美食の街として有名なリヨンで、お菓子をはじめ、いろいろな美味しいものを食べ!!!そして学んでいきたいと思います…

 

 

リヨンにはいくつか有名なお菓子がありますが、

こちら!

 

 

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「クッサンドリヨン」

 

今回はこのクッションの形を模した、パートダマンド(美味しいマジパン)のお菓子について学びたいと思います。

 

 

クッサンドリヨンとはなにか。

 

 

このお菓子は17世紀のある伝説をもとに、1960年に誕生したお菓子です。

伝説は古いですが、お菓子自体は比較的新しいですね。

 

 

では、その伝説とはなにか。

 

 

時は1643年、リヨンの街ではペストが流行していました。医者たちが手を尽くしても、黒死病と呼ばれたこの病の拡大は止められません。

そこで当時の役人たちはリヨンにある丘、フールヴィエールの丘に登り、7リーヴル(約3.5キロ)の蝋燭と絹でできたクッションの上に金貨を一枚のせて置き、聖母マリアに祈りを捧げました。

それ以来毎年、この祈りは繰り返され、その際に響いた三発の大砲の音は、この祈りが届けられたことを示していました。

 

伝説が事実かは分かりませんし、今現在もまだこの習慣が残っているかは分かりませんが、ペストは去り、リヨンの街には平穏な日々が戻りました。

 

 

そしてこの伝説をもとに、1960年、リヨンの老舗パティスリー “VOISIN” ヴォワザンでクッサンは考案されました。今回載せているクッサンの画像は、リヨン旧市街のパティスリー、“A LA MARQUISE”ア・ラ・マルキーズのものです。今ではリヨン中のトラディショナルなパティスリーをはじめ、お土産屋さんなどでも買うことができる銘菓になりました。

 

 

緑色がベーシック。青いお酒、オレンジキュラソーが効いています。他にも様々なフルーツの味があり、アルコールを使用していないものもあります。うすーい糖化したシロップで覆われた表面はシャリっと、餡子のような感触のパートダマンドにその中にはチョコレートガナッシュが包まれています。甘さは強めなので、コーヒーと一緒に頂くと最高です。

 

 

日本で購入できるお店は限られていますが、 アーモンド菓子の専門店、“パパピニョル”さんなど、インターネットからの注文もできるお店もあるようです。

リンクを貼らせて頂きます → http://papapignol.com/item/coussin-de-lyon/

 

 

 

ではでは、また少しずつお菓子や街のレポートをしていきたいと思います。

A bientôt ;) !!

 

 

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パティスリー"VOISIN"

 

 

「ざるもせいろも盛りそば!!フランスのそばガレット!」 ①ガレット

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お菓子の歴史からズレてしまいますが、少し「蕎麦」について書かせてください。

 

 

なぜこんな話になったかと言うと、あるキュイジニエの方と日本蕎麦の話になった時、私は恥ずかしながら“ざる蕎麦”と“せいろ蕎麦”の違いが分かりませんでした。異国の料理やお菓子を学ぶ者が、自国を代表する料理について知らないとはなんたる事か!!!とお叱りを受け、確かに…おっしゃる通りと慌てて勉強した次第でありました。

 

 

さて現在一般的に食べられている麺状の蕎麦ですが、本名「蕎麦切り」と言い、江戸時代より前、16世紀の終わり頃には既にこの形状で存在していたと言われています。元々は貧しい農民の為の雑穀でしたが、その後、江戸時代には将軍への献上品とされるほどの栄誉ある食品にまで昇華しました。食べ方としてはせいろにのせてたまま蒸して食べる、蒸しそばが主流だったそうです。

 

もちろん庶民の間でも蕎麦は人気であり、蕎麦屋は出前の際、蒸した蕎麦をせいろのまま配達しました。せいろは重ねる事ができ大変勝手が良かったのです。

その後、竹ざるに乗せて“ざる蕎麦”として提供しブレイクさせた料亭が出現。ざる盛りはより高級なものと言う認識になり、当時は麺つゆにも差を出して、ざる蕎麦のつゆにはみりんを入れて甘さを付けていました。今ではその差もほとんどなくなり、蕎麦屋で全く同じ器に盛られた“ざる蕎麦”と“せいろ蕎麦”の違いは、麺の上に刻み海苔がのっているかどうか、と言うことになっています。

 

 

 

奈良時代に日本に伝来したと言われている蕎麦ですが、麺の形になる前は粒のまま粥にしたり、“蕎麦がき”と言って、そば粉をお湯で練り、団子の形状で湯掻いた料理にして食べていました。日本史にデビューしたての蕎麦は、あまり美味しい食べ物とは言えず、農民たちが飢餓をしのぐ為の食べ物でした。

これはフランス、ブルターニュ地方の有名なそば粉料理「ガレット」とも似ているところで、ガレットが人々の食生活に根付いたのは、ブルターニュの雨が多く痩せた土地でも"ソバ"が栽培可能な穀物だったからなのです。

 

そういえば、久しくガレットを頂いていませんね…

フランスで美味しいガレットに出会えるのを心待ちにしています…!!

 

 

浅草で頂いた五目そば

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「劣悪な紅茶 ミルクティー」 ① 茶

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ご無沙汰しております!!

日常のバタバタで、すっかりサボりがちに…

 

重い腰をあげてなんとか一記事いってみましょう…!!

 

 

 

今回は少しお菓子から離れて、「紅茶」についてです。

 

 

 

皆さんはお菓子のお供には何を飲むでしょうか。

重厚でコクのあるバタークリームのお菓子には力強いコーヒを。

爽やかで繊細なムースのお菓子には華やかな紅茶を。

はたまた、濃厚なチョコレートケーキに更にカカオ感満点のショコラショーを合わせて楽しむというのも、某有名ショコラトリーのお勧めでもあります。

 

 

もちろん、一口にコーヒー、紅茶と言っても、その種類は様々でお菓子やその時々の気分に合わせると、その組み合わせは無限に考えられます。

コーヒーも紅茶も大好きな私ですが、(お茶をする、という行為そのものが好き)どちらかと言うと、私は紅茶派です。それも、しっかりと発酵された強めの、ミルクがよく会うお茶が好きです。

 

 

さて、今回はこの「紅茶」、特にミルクティーの小話を紹介したいと思います。

 

 

皆さん、ご存知かも知れませんが、

緑茶

烏龍茶

ほうじ茶

紅茶…etc

 

大体の〝茶〟と言う飲み物は、全て元は同じ植物、〝茶の木〟の葉です。

それが育つ場所や環境で、葉が大きくかったり小さかったり、品種の違いが生まれ、更にその収穫時期や製造方法(発酵や燻しなど)により様々なお茶が出来上がります。

 

 

茶の発祥は中国。その誕生については有史以前のこと諸説あり、長くなるのでまた別の機会に書くことにしますが、ヨーロッパにもたらされのは17世紀のこと。当時の貿易大国、オランダによって中国から伝えられたと言います。

その後1662年、現在の紅茶大国イギリスに、ポルトガルからキャサリン王妃が嫁ぎ、紅茶好きの彼女の贅沢なお茶会は一躍有名になり貴族社会を中心に大流行します。

その頃、貴族や文化人たちの社交の場として栄えていたコーヒーハウスというものがありました。いわば、酒の代わりに、コーヒーやチョコレートドリンクを出す〝バー〟。もしくはフランスの〝カフェ〟の様な場所で、そこで紅茶が出されはじめます。17世紀も中頃になると、このコーヒーハウスは一般人にも門戸を開き大衆化、紅茶は一般市民の間でも広く楽しまれる様になります。

 

 

17世紀後半から19世紀の初頭まで、イギリスの東インド貿易会社はお茶の輸入を独占することになりますが、このお茶の流行はイギリスの経済的発展の元になったとさえ言われています。

 

 

 

さて…今回のテーマであった「ミルクティー」ですが。

この飲み方を始めたのもイギリス人です。

今でこそ、スーパーでも安価で美味しい紅茶が買えますし、簡単にティーパックで淹れることもできます。紅茶愛好家の方には、やっぱり茶葉から淹れなくては!などと言われてしまうかも知れませんが、ティーパックでも上手に淹れれば、ヨーロッパに普及し始めた紅茶と比べると随分と美味しいものを頂くことができるでしょう。

 

と言うのも、ヨーロッパに入ってきたばかりのお茶は、紅茶と言うよりは、どちらかと言うと日本茶に近い発酵の浅いものでした。またこのお茶は発酵が浅いだけでなく、金に目の眩んだ商人たちによって劣悪な状態の物が多かったそうで、安価なものには不純物が混ざっていたりもしました。加えて、一般市民向けのティーサロンではお茶の淹れ方も雑であり、現在の様なゴールデンルールは存在せず、薄く不味いお茶を出していたりもしたそうです。

それでも人々は流行のお茶をありがたく頂き、ティーサロンに集う事を一つのステータスとしました。そのなかで、この劣悪な紅茶を少しでも美味しく飲もうとして生まれた飲み方が〝ミルクティー〟。大好きな紅茶の飲み方がまさかの驚きの誕生でした。

 

紅茶が今の様な色になったのは、長い貿易の過程で、消費者の好みに合わせて発酵を強めたからだとも言われます。また産業の発展と共に品質も安定、ヨーロッパのみならず、アジア各国やアメリカ大陸やでも気軽に楽しまれる様になりました。

文明の発展に感謝です!

 

 

さて、18世紀ヨーロッパの紅茶社会に思いを巡らすと、現代の消費者社会にも重なるところがありますね。実はそんなに美味しくないものも、世の中が、もてはやすから価値が生まれてくるのです。そこにあつまる人々は情報を味わいます。

 

 

なんて、そんな事を書いている私もどちらかと言うとミーハーな部類です…

情報に踊らされるのも悪くないでしょう、そこから新しく美味しいものが生まれるであれば。

 

 

A bientôt ;) !! 

 

 

友人宅にて。お手製キャロットケーキとバナナケーキ、セントクリストファーのイングリッシュブレックファーストをミルクティー

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「古典菓子」 ①

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お菓子史でフランス菓子が急速に進化したのは18世紀後半、かの有名なフランス革命以降でした。

革命でフランスの王朝は崩壊、宮廷に仕えていた料理人や菓子職人たちは職を失い城から放り出されます。
トップレベルの技術を持った彼らは生きていく為に自らのお店を建てることになり、今まで王侯貴族にのみ許されたお菓子や料理たちは、未だ混沌とした革命後の社会の中で初めは富裕層を中心にゆっくりと、そしてナポレオンの帝政以降は急速に、民衆の間に広がっていきます。

この時代に先のブログでも紹介したように、アントナン・カレームが生き、ユルバン・デュボワやオーギュスト・エスコフィエなど、料理界の革命者達が続きます。
彼らについても詳しくは追い追い書いていこうと思います。

 

さて、お菓子だけにスポットを当てましょう。

当然ながらお菓子屋さんが増えると、そこからは生き残り合戦です。店対店の競争の中で、さらにお菓子は進化し、様々なお菓子が生み出されます。今もお菓子屋さんのショーケースを賑わせている殆どのお菓子は、この時代に生まれたと言っても過言ではありません。


シブーストやエクレール、ポワールブルダルーにミルフィユなど、全てこの時代に生まれたお菓子です。そして実はよく知っているこれらのお菓子は“古典菓子”に分類されます。

フランス伝統菓子を日本に広めた第一人者、東京 尾山台のパティスリー“オーボンヴュータン”のシェフ、河田 勝彦氏、曰く、

《“伝統”と“古典”では、まったく意味が違うということ。お菓子で言う“古典”や“クラシック”というのは、現在のお菓子の基礎となっている“エスコフィエの時代”を指す事が多い…… (中略) 必然的に生まれた伝統菓子は、実際には粗野なものも多いですし、その土地によって組合せるフルーツやナッツなどが変わることもある。それから、ヨーロッパは陸続きなので、文化の流れも影響してきます。例えば、“クラフティ”が、ブルターニュ地方で“ファーブルトン”になるというように。自然発生的に生まれ、伝わり、広まる。これが伝統菓子です》
出典:panaderia インタビュー http://www.panaderia.co.jp/

 

長い長いお菓子史で考えると古典菓子すら新しく思えるので、私はこれらが“クラシック”に分類されると言うことを理解するのに少し時間がかかりました…


ともあれ、私はいよいよここからが近代お菓子史の幕開けだと思います!

 次はこの時代のお菓子について書きたいと思います。

 

 

 

パティスリーオーボンヴュータンのエンブレム

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「ガレットブレッサンヌ」 ②

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以前ブログで紹介した《ガレット・ブレッサンヌ》

 

 

 

吉祥寺のパティスリー、レピキュリアンで見つけました。

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小ぶりでしたが、しっとりとしたブリオッシュ生地にクリームのコク、グラニュー糖のジャリジャリ感がなんとも言えない美味しさでした!

 

 

ガレット・ブレッサンヌの他にも、カヌレ・ド・ボルドーや、スフォリアテッレなど、クラシックなお菓子が沢山置いてある他、生菓子やボンボンショコラも美しく並べられ、素敵なお店でした。

混雑していたので座れませんでしたが、イートインスペースもあります。

 

 

 

吉祥寺にお立ち寄りの際は、ぜひフランスの空気を味わってみてはいかがでしょうか。

 

 

"ファーフリュイセックとコンベルサスィオン”

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「ショコラのヨーロッパ伝来」 ⑤

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ショコラ 、ヨーロッパ伝来!

 

今回のテーマです。

前回の記事で書いたように、ヨーロッパにショコラを持ち込んだのはスペインですが、フランスにはどのように伝わったのでしょう。

 

ショコラをフランスに持ち込んだのは、1615年にスペイン王室からルイ13世に嫁いだ、アンヌ・ドートリッシュだと言われています。
アンヌ王妃とその取り巻きの婦人達だけでなく、同行したスペインの修道士達がフランスの同僚にも配り、その普及に一役買ったそうです。

その後、有名な「太陽王」のルイ14世にもマリー・テレーズ・ドートリッシュが嫁ぎ、この二代続いてのスペインからの輿入れは、フランス王室にショコラを浸透させることになります。

 

なんと、コーヒーがまだ珍しくなかなか手に入らなかったので、ショコラの方が多く飲まれていた程だそうです。

フランス伝来当初のショコラは胃腸の調子を整えるをはじめとして、様々な効能のある《薬》でありながら、まだ現在の様な固形ではなく、水に溶かして飲むホットチョコレートで、砂糖が加えられ、既に美味しい飲みものでもありました。

 

スペインから嫁いだ王妃2人。

始めは良く思われた結婚生活も、早々と冷え切ってしまいます。

異国に嫁いだ寂しさを紛らわすために、ショコラに癒しを求めていたのかも知れません…

 

 

さて、次回はショコラのお菓子としての進化に迫りたいと思います…!

 

 

 

 

 

「伝説とショコラの神様」  ④

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 “ケツァルコアトル

 

 

突然ですが、今回のテーマです。

ここでは、RPGゲームに出てくるモンスターの事ではありません。

 

ケツァルコアトルはアステカの神様で、自然、大気、水、火、音楽、詩の神として、アステカの人々に愛されていました。

かなり色々なもの、ほとんど万物の神といって良いですね。

 

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“出典:Wikipedia ケツァルコアトル ”

 

その姿はしばしば、戦士のような人型や、羽をはやしたドラゴンのような姿で描かれています。

では、いったいこのケツァルコアトルがどうショコラと関係があるのでしょうか。

 

ショコラの誕生に関する文献を読んでいると、

なんとこのオールマイティな神様は天上界の庭師でもあり、カカオの原木を生み出した張本人(神?)であるとありました。

 

その為にのちに、カカオの木にテオブロマ~神の食べ物~という学名が付くことになるのです。

 

 

スペインからコルテス軍が上陸したとき、アステカ王はじめ、その国民たちは、自分たちの神が戻ってきたのだと、熱狂的に迎えたそうです。その後、沢山の血が流れ、文明が滅びることになろうとは露とも思わずに・・・

 

カカオに限ったことではありませんが、食材の普及の背景には、争いがあることも多いですね。今美味しいチョコレートが気軽に手に入るのは、本当に幸せなことです!!

そんな思いで私は、高級ボンボンショコラもチロルチョコも美味しくいただいています。どちらも大好きです・・・!

 

 

さて次回、ショコラの歴史は舞台をヨーロッパに移していこうと思います。

 

 

 

いつもの材料をお得に購入(cotta)